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ダンプ松本のwiki経歴と生い立ち!デビューから極悪同盟結成の壮絶人生!

Netflixでいよいよ配信される「極悪女王」で注目を集めるダンプ松本さん。

彼女の経歴やプロレス界への貢献は多くの人々に知られていますが、実際にはどのような人生を歩んできたのでしょうか?

今回は、彼女のwiki経歴や生い立ちからデビュー、極悪同盟結成に至るまでの壮絶な人生を調査し、その裏側にある物語を明らかにします。

彼女の知られざるエピソードや激闘の日々を一緒に見ていきましょう。

ダンプ松本のwiki経歴

  • 本名:松本香(まつもと かおる)
  • 生年月日:1960年11月11日
  • 出身地:埼玉県熊谷市
  • 所属団体:全日本女子プロレス
  • デビュー:1980年、本名でデビュー
  • リングネーム変更:1984年、「ダンプ松本」に改名
  • キャリアの転機:1984年、クレーン・ユウと「極悪同盟」を結成し、ヒール軍団を率いる
  • 有名な抗争:クラッシュギャルズ(長与千種&ライオネス飛鳥)との壮絶な抗争
  • 代表試合:1985年の「敗者髪切りデスマッチ」(長与千種戦)
  • 特徴:金髪、派手なペイント、チェーンや竹刀などを使った凶器攻撃
  • 異名:「日本で一番殺したい人間」とまで言われたヒールの象徴
  • 引退:1988年に突然引退
  • 引退後:バラエティ番組やドラマに出演し、タレントとしても活躍
  • 現役復帰:2003年に現役復帰、極悪同盟も再結成
  • 現在:還暦を迎え、プロレスと芸能活動を両立中

ダンプ松本は、1980年代に全日本女子プロレスで一躍有名になったヒールレスラーで、本名は松本香です。

彼女は1980年にデビューし、1984年に「ダンプ松本」としてリングに立つようになります。

クレーン・ユウとの「極悪同盟」を率い、クラッシュギャルズとの激しい抗争で大人気となり、特に1985年の「敗者髪切りデスマッチ」はプロレス史に残る名勝負です。

彼女の過激なパフォーマンスや凶器攻撃は観客を熱狂させ、ヒールとしての地位を確立しました。

「日本で一番殺したい人間」と称されるほどの悪役ぶりでしたが、1988年に突然引退。

その後はタレントとしても成功し、2003年に再びプロレス界に復帰。現在も精力的に活動を続けています​

ダンプ松本のデビューまでの生い立ち

それでは、ダンプ松本さんのデビューまでの生い立ちを順番にみていきましょう!

幼少期から苦しい家庭環境で育つ

ダンプ松本さんは、幼い頃から厳しい家庭環境の中で育ちました。

彼女が語る父親は、定職を持たず、酒やギャンブル、さらには女性問題にも手を出す放蕩者。

家庭にお金を入れることもなく、母親が一人で家計を支えていたそうです。

家族は四畳半の狭いアパートで暮らし、風呂もなく、トイレも共同。彼女が母親に対して強い思いを抱いていたのは、この過酷な状況の中で母が懸命に働いていたからです。

「うちは父親がダメだったからね。定職にもつかず、酒、バクチ、女…遊びの限りを尽くして、一年中ほとんど家に帰って来なかったんだよね。家にお金も入れてくれないし。だから母が座布団やかけ布団の綿を詰める内職をして家計を支えていたんだ」

と彼女は振り返っています​。

特に印象的なのは、ダンプ松本が幼い頃に母親を守りたいと強く思い、父親に対して「殺してやりたい」とまで憎んでいたということです。

「大好きな母を苦しめるこの男をどうにかしてやりたい。殺してやりたいと思うほど憎んでいたからね。そのためには自分が強くなるしかないと思った」

と、幼少期の過酷な生活が、後のプロレスキャリアに強く影響を与えたことを語っています​。

後に父親とは和解

2019年に父親が肺炎で入院した際、医師から「あと1週間しか持たない」と告げられ、その瞬間に長年抱えていた憎しみが消えたと語っています。

それまで50年間ほとんど口を利いていなかった父親ですが、入院中、父が意識がもうろうとしている時、看護師に「この人は誰かわかる?」と聞かれ、

「ダンプ松本」と答えたことがきっかけで、彼女は父親が自分の活躍を認め、応援していたことを悟ったと明かしています。

学生時代のスポーツ経験

ダンプ松本は中学時代、バスケットボール部と水泳部に所属し、高校に進学後は、アーチェリーに打ち込みます。

バスケットボールは体力的に厳しすぎてすぐに辞めました。

しかし高校でのアーチェリーは当時、全員がほとんどゼロからスタートするスポーツだったため、競技経験の差がないことから、彼女にとって理想的な選択肢でした。

「バレーボールやソフトボールを高校から本格的にはじめても、中学からやっている子には勝てないから、アーチェリーにしたんですよね。今思えばゴルフにしておけばよかったかなって後悔しているけど(笑)」

と、自らの選択を振り返っています​。

ダンプ松本はこのアーチェリーでインターハイに出場し、補欠ながらも部長にまで上り詰めたことから、その競技への集中力と努力が伺えます。

「アーチェリーのおかげで集中力が養われた。これがプロレスにも活かされていたと思います。何を言われても精神統一する感覚でやっていましたから」

と、後にプロレスのリングでも役立った経験を語っています。

母親を守るためにプロレスラーを目指す

プロレスに対する彼女の憧れは、1970年代に女子プロレスがテレビで放送されていたことがきっかけでした。

特に、マッハ文朱が試合に負けた後にリングで涙を流しながら「花を咲かそう」を歌う姿に感動し、「自分もプロレスラーになりたい」という強い決意が生まれました。

「中学2年生のとき、テレビでマッハ文朱さんが試合後に泣きながら歌っているのを見たんですよ。それが私にとって衝撃的で、そこからプロレスラーになりたいと思うようになったんです」

と彼女はインタビューで語っています。

さらに、プロレスラーを目指した背景には、母親を守りたいという強い思いがありました。

父親の無責任な行動に苦しむ母親を助けるため、彼女は「強くならなければ」と決意しました。

「父親が働かない分、私がプロレスで稼いで母に楽をさせたい。母を守りたかった」

と、彼女はその動機を語っています。

全日本女子プロレスに挑戦し、デビューまでの苦労

ダンプ松本が全日本女子プロレスに挑戦したのは、高校卒業後のことです。

プロレスラーになるという夢を抱いていましたが、現実は厳しいものでした。

何度もプロテストに落ち、同期たちが次々とデビューする中、自分だけが取り残されるという焦りを感じていたといいます。

「他の同期がデビューするのを見て、もう辞めてしまおうかと思ったこともありました。でも、母親のために強くならなければという思いが私を支えていました」

と、その時の心情を語っています​。

その間、彼女は全日本女子プロレスの営業車の運転手として働き、プロレスのトレーニングを続けました。

時にはいじめやしごきにも耐えながら、ついにデビューのチャンスを掴みます。

「先輩からのいじめもすごかったけど、『絶対に見返してやる』という気持ちが私を支えていました」

と、当時の苦労を振り返っています。

このように、彼女のプロレスデビューまでの道のりは決して平坦なものではなく、多くの苦難を乗り越えての成功でした。

彼女がプロレスラーとして成功を収めた背景には、家族を守りたいという強い思いと、挫折を乗り越える不屈の精神がありました。

ダンプ松本誕生!悪役レスラーへの道

当時、観客から「ダンプみたいだ」と呼ばれたことがきっかけで、彼女は「ダンプ松本」というリングネームを受け入れます。

この名前について、ダンプ松本本人は

「観客が私を見て『ダンプみたい』って言った時、私の運命が決まった気がした。これでやっていくんだって思った」

と決意しています。

彼女がヒールを目指した理由の一つには、自らの体型や外見がありました。

「自分はベビーフェイス(正義役)のタイプじゃなかった。太っていて、見た目も厳つい。だから、私は悪役として上に行くしかないと思った」

と振り返ります。

この自己分析によって、彼女はヒールとして他のレスラーとは異なる道を選び、成功への階段を登り始めました。

しかし、ただリングに立つだけではなく、彼女は「いかにして嫌われるかどうすれば一番憎まれるか」ということを常に考えていました

ヒールとして観客に憎まれることが彼女の仕事であり、そのために私生活でもヒールを徹底的に演じていました。

「リングの外でも絶対に笑わない。サインを求められても『暇じゃねぇんだよ!』って追い返してたんだ」

とヒール役を徹底したと言います。

そして、リングではチェーンや竹刀など、様々な凶器を使ったパフォーマンスを展開し、クラッシュギャルズとの抗争で日本中のプロレスファンに強烈な印象を与えました。

ダンプ松本さんは、こうした強い覚悟と徹底的なヒール演技で女子プロレス界の頂点に立ち、長く語り継がれる悪役レスラーとなりました。

彼女のヒールレスラーとしての成功は、ただのパフォーマンスではなく、観客の反応一つ一つを見据えた冷徹な計算と強い意思の賜物だったのです。

極悪同盟結成までの経緯と名勝負

1984年、ダンプ松本はクレーン・ユウと共に「極悪同盟」を結成しました。

当時の女子プロレスは、クラッシュギャルズのようなベビーフェイスが主流でしたが、ヒール(悪役)レスラーが必要とされる時代背景もありました。

極悪同盟は、ヒール軍団としてその需要に応え、リング上での暴力的なパフォーマンスや凶器攻撃を駆使して観客の注目を一気に集めました。

彼女たちの登場によって、女子プロレスはさらに過激でエンターテインメント性の高いものへと進化していきました。

ダンプ松本は当時を振り返り、

「私たちはファンに嫌われることが仕事だった。クラッシュギャルズが善玉として光るためには、私たちのような強烈な悪役が必要だったんです。だから徹底的にヒールを演じました」

と語っています。

この覚悟が、多くのファンを惹きつけ、結果としてプロレス全体を盛り上げる役割を果たしたのです。

クラッシュギャルズとの壮絶な抗争

極悪同盟とクラッシュギャルズ(長与千種&ライオネス飛鳥)の抗争は、女子プロレスの歴史に残る伝説的な戦いとして今でも語り継がれています。

クラッシュギャルズは、当時の女子プロレス界のアイドル的存在で、若い女性ファンから圧倒的な支持を集めていました。

対する極悪同盟は、リング上での凶暴なパフォーマンスや反則技を駆使して、彼女たちを叩きのめす役割を担っていました。

ダンプ松本自身もこの抗争について、

「クラッシュギャルズとの試合は、まさに全力を尽くした戦いでした。彼女たちがいなければ、私たちもここまで注目されなかったと思います。ファンの熱狂はすごくて、試合中に物が飛んでくることもしょっちゅうでしたね」

と振り返っています​。

観客の反応が過熱し、しばしばリング周辺で騒動が起きることもあり、まさに命がけの対決が続いたのです。

伝説の髪切りデスマッチ

1985年、大阪城ホールで行われた「敗者髪切りデスマッチ」は、ダンプ松本のプロレスキャリアの中でも最も有名な試合のひとつです。

この試合では、負けた者が髪を切られるという屈辱的なルールが設定されていました。

ダンプ松本と長与千種が激突し、試合は血みどろの激闘となり、会場全体が熱狂に包まれました。

試合に敗れた長与千種がリング上で髪を切られる瞬間、観客の一部が暴徒化し、ダンプ松本が乗るバスを取り囲んで揺らすほどの騒ぎとなりました。

「あのときは本当に驚いた。まさかファンがあそこまで熱狂するとは思ってもみなかったです。警備の人たちがなんとかしてくれなかったら、私たちは危なかったかもしれません」

と、ダンプ松本はその試合の衝撃的な展開を振り返っています。

この「敗者髪切りデスマッチ」は、プロレスの枠を超えて社会現象にもなり、女子プロレスのブームを決定的にした試合です。

多くのファンが涙し、長与千種が髪を切られる姿は、その後も語り継がれる名場面となりました。

ダンプ松本は

「私がヒールであればあるほど、千種が輝く。あの試合はまさにそれを象徴するものだった」

と誇らしげに語っています​。

ダンプ松本の「極悪同盟」時代は、女子プロレス界におけるヒールの重要性を示したものであり、彼女の過激なパフォーマンスは多くのファンに強烈な印象を残しました。
その一方で、クラッシュギャルズとの壮絶な抗争を通じて、彼女自身もプロレス界のスターとなり、女子プロレスの黄金時代を築いたのです。

引退と現役復帰までの活動

1988年、ダンプ松本さんは突然の引退を発表しました。

当時、プロレス界の頂点に立っていた彼女ですが、自ら区切りをつける決断をしました。

引退後は、バラエティ番組やドラマに出演し、プロレス以外の分野でも人気を博しました。

ユーモアあふれるキャラクターで、多くの視聴者から愛される存在となり、プロレスファン以外にも支持を広げていきました。

そして2003年、彼女は再びプロレス界に戻ります。

この復帰はファンにとって驚きであり、同時に大きな喜びでもありました。

再結成された「極悪同盟」とともに、彼女は再びリングでの活動を再開します。

還暦を迎えた今もなお、彼女はプロレスとタレント活動を両立し、リング上でもメディアでもその存在感を示し続けています​

まとめ

いかがでしたでしょうか?彼女のプロレス界への貢献や極悪同盟のエピソードを知れば知るほど、Netflixで全世界に配信されている「The Queen of Villains(極悪女王)」が気になってきますよね。

ダンプ松本さんは、単なる悪役ではなく、女子プロレスを日本全国に広めた立役者の一人です。

彼女の覚悟と情熱、そしてリング上での戦いは、今も多くのファンの心に刻まれています。

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